絵本作家しばはら・ち 私、こうして絵本作家になりました…「他人の道は歩けない」

初めから絵本が好きだったのではありません

私、初めから絵本が好きだったのではありません。

小学2年生の時から、漫画少年になりました。この頃は、まだ漫画を描く道具を知らずに、習字の半紙に鉛筆でかいていました。

描き終わると、半紙を半分に折ってセロテープで綴じてました。ペラペラの冊子ですね。ノートにも描きましたが、ノートのページに刷ってある横線がジャマに感じていました。(おそらく、漫画の本にはそんな横線がないからでしょう)。


小4年生になって「漫画家入門」という、子ども向けの「漫画家になるにはどうしたらいいか」という本を買ってもらいました。この本から、「紙は西洋紙(模造紙のこと)を使うこと。ペンに墨汁をつけて描くこと」知りました。

すぐに道具をそろえましたね。ペン先には種類があって、カブラペン、スクールペン、Gペン、丸ペンなどを試していました。


やがて墨汁は製図用黒インクに。紙はB4で90㎏の少し厚めの模造紙になりました。けれども、私、漫画ばかりの少年ではなくて、運動も好きでしたね。

柔道やサッカーもやってましたし、勉強もしました。発明発見や工夫することも、大好きでしたから。漫画少年はそのまま中学、高校、大学生になってもつづきました。

絵本との大きな出会い


 私の絵本との大きな出会いは、福岡の教育大学美術科の卒業制作の時でした。

担当のデザインの教授が「デザイン的に面白い絵本」ということで見せてくれたのが、レオ・レオーニの「あおちゃん きいろちゃん」やブルーナの「うさちゃん」や「絵が変わる仕掛け絵本」など、お話が中心ではない絵本でした。

「こんな絵本もあるんだ」というのが強く心に残っています。と同時に漫画はモノクロで描いていたので、色を使う表現の楽しさも感じましたね。


でも、まだ絵本を描いていこうとは思っていませんでした。卒業制作では絵本を6作品をつくりあげました。そして東京へ。漫画家のアシスタントをすることになっていました。

自作の作品集を出版社に送っていました

上京して、アシスタントをしている時に、児童書や幼児雑誌などの出版社に、A5サイズの四コマ漫画集やB5サイズ短編漫画集を、作って送ったりしていたら、少しづつ仕事の依頼がくるようになりました。

アシスタントは1年で独立して、その後も、コピー紙で作った小さい冊子を作っては送ったりしているうちに、当時の偕成社の「絵本とお話」手作り絵本コンテストに応募した作品に賞を、いただきました。そして、同時期に自作の冊子の中のひとつが絵本として出版されることになりました。

この時は27歳でした。こうして、どんどん依頼が広がり、月刊の絵本、紙芝居、児童書のお話などをかきました。こうして書くと、とても順調ですが、急に忙しくなり、困ってしまいました。


作と絵の作品ばかりなので、作がもたつくと、絵を描く時間が押され、絵に手間取っていると、これから考えるお話の締め切りが、せまってくるといった具合です。

そこで、私が考えていたことは、「アイディアが湯水のごとく、あふれる方法」 これがあれば、なんて幸せなことでしょうと…